哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2023年6月11の私の頭の中にあること

■2023年6月11の私の頭の中にあること

 昔お友達に、文章を書く営みそれ自体は好きではないといった覚えがある。それはそうである。こうして文章を一文字一文字打ち込んでいく営みは、たいして楽しいものではない。それよりもずっと楽しいのは、その次に記されるべき文字を頭の中で考えているときである。文章を書くことは、物理的な営みである。鉛筆を手にもって、紙の上を滑らせるにせよ、パソコンのキーボードを一つ一つタイプしていくにせよ、それは手を動かす運動に過ぎない。楽しいことは私の頭の中だけで起こっている。

 ではなぜそれを、文字にしたためるのであろうか。文字を書くことはコミュニケーションである。つまり「2023年6月11日の自分」以外の他者とつながろうとする営みである。6月11日の私にとって、そのつながろうとしている相手が誰なのか、それをはっきりと想定できているわけではない。だから、私がこうして頭の中で楽しみながら考えた文章をキーボードをタイプするという単純作業を経てまでブログに文章として刻み込んだ結果のものを、読むのは、私が全く知らない人かもしれないし、知っている人かもしれない。女なのかもしれないし男なのかもしれない。お年寄りかもしれないし子供かもしれない。親かもしれないし孫かもしれない。友達かもしれないし会社の同僚かもしれない。あるいは「2023年6月12日の私」かもしれないし、「2063年6月11日の私」かもしれない。その全てが他者とのコミュニケーションといえる。うん、そう考えると文章を書くという営みも、そう悪くはないものに思われる。

 とはいえ、頭の中で物事をあるいは文章を、考えているだけで十分楽しいので、たいていの瞬間の私はそれで満足している。週に一回、こうして文章を生み出す苦しい時間をすごす。時折、インスタグラムにも同じような文章を書くこともあるが、そちらはこのブログのように週に一回出し続けてきたという実績はないので、気が楽だ。そう、実績は私を縛る枷である。所属も、あるいは肩書も、そうした社会的な評価の対象となりうるものはすべて、私を縛る枷なのだと思う。

 このところとてつもなく仕事、狭義の意味での、サラリーマンとしての勤め先の仕事が忙しい。残業をしたり、休日に考えを進めたりしても、作業が終わらないほど忙しい。やめることはできなくはない。今抱えている業務を手放すのでも、職それ自体を手放すのでも、できないことではないので、自身の心身の健康と天秤にかけて、手放したことで失うものと比べていくしかない。だから本当であればこうした日曜日も、なんだか楽しいなあと文章を書いている暇が実はないのかもしれない。狭義の仕事について考えたり、月曜日からの出勤に備えて身体を休めたりするべきなのかもしれない。それでも、私が文章を書くのは、他者とコミュニケーションをとりたい、それだけの理由ではない。実績ゆえである。

 このブログは丸五年以上、続けてきた。丸五年以上? 私自身が驚いてしまうところではあるのだけれど、ともかく毎週一回、質も量もまちまちながら、何かを書いて公開してきた。私が私でなかったら私に対して大したものだと言ってやると思う。それくらい毎週毎週忘れずにブログを更新し続けるということは、すごいことだと思う。でも私は私だから私のことは褒めないし、でも私と2023年6月4日の私は別人だからそれは褒めてもいいのかもしれない、ともあれ、その積み重ねてきた日々は私にとって素晴らしいものであると同時に、恐ろしいものでもある。それらは私を縛り付けて、容易に逃げられないようにするものである。

 そのため、すべてを捨てて逃げ出すわけにはいかない。

 ブログを更新していくにあたりもっとも手間がかかるのは、記載する内容について下調べをしたり、参照情報へのリンクを貼ったりすることである。私の外にある物事について説明しようと、あるいは紹介しようとするから、そうした面倒が発生する。だからひとまず今日だけは、私の頭の中にあることだけを書くのである。それであれば、取材もリンクも必要ない。たいそう楽ちんである。

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