哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

映画等のこと⑳「葬送のフリーレン」

■ 映画等のこと⑳「葬送のフリーレン」

 葬送のフリーレン(日本テレビ・主演:種崎敦美 )は山田鐘人・アベツカサによる小学館週刊少年サンデー」連載中の漫画を原作としたアニメ。去る2024年3月22日、二十八話「また会ったときに恥ずかしいからね」が放送されて、最終回を迎えた。原作漫画はまだまだ続いているため、終わってしまって早々続編が楽しみであるが、第二期の放送については特にアナウンスされていない。ともあれ、一通り拝見したところでの感想を、以下に記す。

以下、たぶんネタバレします。

● 「葬送のフリーレン」のこと

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 フリーレンはエルフの魔法使いである。多くのファンタジー作品(『指輪物語』や『ダンジョンズ&ドラゴンズ』等)で、エルフ(やドワーフ)は寿命が長い(あるいは自然死をしない)と設定されている。本作の肝はそこである。
 作中の世界から約八十年前、魔王を滅ぼして世界に平和をもたらした勇者のパーティ(チーム・一行の意)があった。勇者ヒンメル、戦士アイゼン、僧侶ハイター、魔法使いフリーレン。あまり細かな設定の説明がないので、視聴者にファンタジー作品やロールプレイングゲームのお約束を前提知識として求めているようだけれど、一般に戦士は武器を持って前衛で敵と対峙する役、僧侶は魔法(本作では女神様の魔法と称される)等を用いて仲間の体力を回復させたり毒や病気を治したりする役、魔法使いは魔法を用いて敵を攻撃したり仲間のサポートをする役、と考えられる。勇者については戦士のように前衛で戦う役なのだと思う。作品によっては勇者専用の攻撃魔法があったり、簡単な回復魔法が使えたりするが、本作でヒンメルが魔法を使っている描写はない。
 ともあれ、ヒンメルとハイターは人間なので寿命は約百年、アイゼンはドワーフで本作でのドワーフの寿命は三百年程とされている(もっとも作中には四百年生きているドワーフのフォル爺が登場する)。そしてフリーレンは少なくとも千年以上生きていることが描写されている(フリーレンの師匠である人間の魔法使いフランメは千年以上前の人である)。
 本作は十年間の旅の末、勇者ヒンメル一行が魔王を倒し王都へ凱旋するところから始まる。勇者の凱旋を祝す夜宴の最中、五十年(半世紀)に一度見ることができるエーラ流星が現れる。街中よりも流星を綺麗に見られる場所を知っているというフリーレン、一行は五十年後にまたエーラ流星を見に集まることを約束して、それぞれの生活へと戻っていく。
 そして五十年後、約束通りに再会してエーラ流星を見た一行だが、直後にヒンメルが亡くなってしまう。ヒンメルの埋葬に際してフリーレンは、自身がヒンメルらのことを何も知らないことに気がつき涙をこぼし、人間のことを知る旅に出る。さらに二十数年後、アイゼンやハイターそして今は亡き師匠フランメの助けを借りて、大陸の北の果て、魂の眠る地オレオールでヒンメルと会話するという目的を定めたフリーレンが、初めてとった弟子のフェルン(人間で、ハイターに養われていた孤児)や、アイゼンの弟子で戦士のシュタルクらと旅をする様子を描くのが本作である。

 自分よりもはるかに寿命が短い人間と深く交わろうとしなかったフリーレンが、自分の生きてきた年月の百分の一、たった十年を共にしたヒンメルらとの日々によって変わり、人間を知ろうとする。ヒンメルらと旅をした軌跡を辿るように北を目指す(目的地であるオレオールはヒンメル一行が倒した魔王が巣くっていた魔王城の辺りなのだという)。道中で出会う人々の中に、ヒンメルらの思い出が大切に残っていることが描かれる。その様子が美しい。
 フリーレンは元々、困っている人がいても手助けをするような性格ではなかったようなのだけれど、本作ではヒンメルであればそうしただろう、という人助けをして、お礼に魔導書をもらったりする。フリーレンの趣味は魔法の収集、魔法はそれを探し求めている時が一番楽しいのだとか。”銅像の錆を綺麗に落とす魔法”や”甘い葡萄を酸っぱい葡萄に変える魔法”といった民間魔法を教えてもらいながら旅を続ける。
 作品の序盤、ある村に立ち寄ったフリーレンとフェルンは、勇者ヒンメルの銅像を掃除してほしいと依頼され、代わりに薬草師のおばあさんから付近の植生を教えてもらう。魔法で銅像をぴかぴかにしたフリーレンだけれど、銅像がまた忘れ去られて汚れてしまわないように、あたりに花畑を作ろうとする。花畑を出す魔法は、ヒンメルたちが喜んでくれるからという理由で、フリーレンのお気に入りの魔法。ただどうせならヒンメルが好きと言ってた蒼月草の花畑を出したいと思ったフリーレン。といってもフリーレンは蒼月草の実物を見たことがなく、実物を知らないと魔法で出すこともできないので、ということでその周辺からは絶滅してしまったと思われている蒼月草探しに乗り出す。あっという間に半年が過ぎる。長命のフリーレンにとっては些細な時間でも、人間のフェルンは焦り始める。フリーレンの、ヒンメルとの思い出を大切にする気持ちを見ることができて、またフェルンとの関係性が少しずつ出来ていく様子も見れて、とても良い。
 ヒンメルの死後二十年(作中の年代は全てヒンメルの死から何年として示される)でフリーレンはフェルンと出会う。同二十六年後、フェルンが一人前の魔法使いと言っても遜色ない程度に成長しハイターが死ぬ。二人は旅に出て、二十八年後にシュタルクが一行に加わる。ひとまずアニメではヒンメルの死から二十九年目まで描かれる。つまり本作で主に語られるのはヒンメルの死から二十六年より二十九年の、三ないし四年程。当然その間に登場人物たちの誕生日がやってくるわけで、フェルンやシュタルクの誕生日をテーマとした話が何度か出てくる。アクセサリーなんかをプレゼントする、スイーツを食べに行く、大きなハンバーグを焼く、みたいな、現代日本の感覚ですごくベタなエピソードが描かれるのだけれど、ベタでいいのだ。誕生日ネタ多くね、とは思わなくもないが、少年誌での連載ということを考えると、誰かのことを思って行動するきっかけとしては、誕生日はぴったりなのだろうと思う。
 さだまさしの曲に「Birthday」という作品がある。”やさしい手紙をありがとう、気にかけてくれていてありがとう、下書きの跡が胸に沁みます、こんなわたしの為にこんなに沢山の、あなたの時間をくれたのですね”という歌詞があり、まさにこういうことなのだろうと思う。
 作中、フェルンがフリーレンに、私のことを知ろうとしてくれたことがたまらなく嬉しい、と言うシーンがある。大切なのは何をするとか何をあげるかではないのである、どれだけ相手のことを考えていたか、それが伝われば相手は嬉しいのである。そんなことを、人の心がわかっていないフリーレンは知るべきであり、作品を通して作者が描きたいことなのだろうな、と思う。

 ともあれ、こうしてとても長い寿命を持つのはどういう気分なのだろうか。例えば、猫は二十年程しか生きない。人間の四~五分の一の寿命だ。フリーレンにとっての人間、の感覚はそれに近いかも知れない。ただ猫は、人間より寿命がずっと短いからといって、特に焦っている様子はない。放っておけば寝てばかりいる。でもそれは猫と人間が共通の言語を持たないからそう感じるだけであって、猫の側は人間比べて短い寿命を悲しんでいるかもしれない。
 一方で人間側からすると、猫を見送ることが圧倒的に多くなる。人生の中で出会う猫の大半は、自分より先に死ぬ。それは悲しいことであり、もしかするとそんな猫一匹一匹に関心を持たない方が、悲しみは少ないのかも知れない。そう考えるとフリーレンが、人間はすぐ死んじゃうからと言ってフェルン以前には弟子をとっていなかったこと、一人の方が気ままと言っていたスタンスは、優しさの裏返しと取ることもできるのかもしれない。
 本作ではそんなフリーレン、フェルン以外に、完璧ではない人たちがたくさん出てくる。それが魅力である。戦士なのに敵との実践が怖いとか、自分の過去の選択を後悔し続けている僧侶とか、そんな人たちがたくさん出てくる。本作の終盤、フリーレンとフェルンは一級魔法使い試験に挑む(目的地の北の果てに行くには、一級魔法使いの同行が必要なのだとか)。たくさんの魔法使いが出てきて争ったり友情が芽生えたりする、少年漫画の王道展開になってしまう点が残念ではあるのだけれど、それでも色々こじらせていそうなキャラクターが多いのは良い。多分、今後の物語の中で、そうした人物たちの闇の部分を、少しずつ明らかにしてくれるのだろう。楽しみである。

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