■絵画等のこと⑤ 2021年芸術の秋に……
このところ、見たい美術展が立て込んでおり、一週間に三箇所という暴力的なペースで拝見してきたので、吐き出します。
●柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年@東京国立近代美術館 のこと
東京国立近代美術館にて開催中(〜2022年2月13日)の「民藝の100年」展。
民藝とは柳宗悦らが、1920年代から提唱しはじめた、所謂芸術作品ではなく、日常使いの器や道具、衣類等で、美を感じるもののこと。そうした焼き物等のことを下手物(げてもの)と呼ぶそうで、げてものというと気持ち悪いものという印象だったので、そういう意味もあるのかと、勉強になった。
また柳が一時期、千葉県の我孫子に住まいし、バーナード・リーチが作業場を構えていた、ということも初めて知った。私は千葉県民なので、ゆかりの人物として、少し親近感が増した。
柳は民藝を通してアイヌや朝鮮等、西洋式のものの見方だと未開に映る文化を尊重し、それを主張・表現している。それは政治を政治として批判する(つまり帝国主義を政治的な立場として非難する)のではなく、(弱い側の文化に目を向けることで、単なる被支配者としてでない価値を見つけるという点で、)先進的であり必要な視点だと思う。
1920年代の鉄道整備に伴う旅行ブーム、柳自身が1923年の関東大震災以降、京都に居を移していること等、民藝の発見には移動が影響していたそうである。移動して違う文化を見る、境界を知り越えていくからこそ新しいものに出会うことができる、彼の足跡からはそうした越境の大切さがわかる。参考としたい。
●福田美蘭展 千葉市美コレクション遊覧@千葉市美術館 のこと
福田美蘭の作品は初めて拝見した。江戸絵画を改変しながらそこにメッセージを込める、といった作品を製作されている方のようで、面白いアイデアの作品がたくさんあった。
月岡芳年による大判錦絵「風俗三十二相 けむさう」を元にした作品では、けむそうな煙を五輪の輪に見立て、なんとなく東京五輪に正面切って反対できない煙たさを表現しており、印象的である。今からほんのニ、三ヶ月前に行われていた、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会については、会期中に新型コロナウイルス感染症の爆発的な感染爆発が起きており、閉会後から急速に新規感染者数が減少したという謎(結局のところ感染が収まっている理由も、ワクチンなのか人流抑制なのか、判然としない……)はあるにせよ、終わるには終わった。この一年半(新型コロナウイルス感染症が拡大し始めた2020年2月〜パラリンピック閉幕の2021年9月)、日本国民が感じていたけむたさは一応晴れたことになるが、そのなんとも言えない嫌な感じを、上手く風刺した作品である。
また曾我蕭白による「獅子虎図屏風」の蝶と遊ぶ獅子を、「閉じた屏風の中の獅子」として、至近に迫った蝶に怯えているかのように描き直した作品は、獅子が大変可愛らしく良き。屏風に限らず、例えば扇子でも、開いた時の絵柄がどうなるか、ということに意識が向きがちである。それを仕舞ったときどうなるのか、考えてみると面白い。
雪舟による「慧可断臂図」(達磨の元を訪れた慧可が自らの左肘から先を切り落として入門を乞う緊張感溢れる作品)は「慧可断臂図 折かわり絵 (4枚組)」として、その後の物語も想像。折かわり、つまり紙を折りたたむことで、一部を見えなくしたり、一部をクローズアップすることで、変化を与えるという技法、この作品自体はピンとこなかったけれど、試みは面白く感じた。
伊藤若冲が禅僧大典との川下りを描いた「乗興舟」も福田美蘭にかかると、今上天皇の即位パレードになってしまい、沿道の人々がスマホを掲げて密集しているさまには、現代日本とは……、と考えてしまう。思えばこれも二年半前、コロナ以前の出来事で、懐かしくさえある。その他、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を左右反転させたり、写楽の役者絵をリアルに描きなおしたりと、面白い試みがたくさんあり、刺激を受ける内容であった。
●庵野秀明展@国立新美術館 のこと
庵野秀明をつくったもの、庵野秀明がつくったもの、そして、これからつくるものとして、庵野が影響を受けたウルトラマンや仮面ライダー、サンダーバード等に始まり、携わったトップをねらえや風の谷のナウシカ、そして当然一連のエヴァンゲリオン作品、シン・ゴジラ、シン・ウルトラマン、シン・仮面ライダーへ……。
1981年、第20回日本SF大会でのDAICON FILM 等、庵野の高校、大学時代、自主制作で作っていたアニメや実写等が大変興味深かった。今のように誰でもPCを操る時代ならいざしらず、その当時に趣味で映像作品を作っていた人がいるというのは、なんというか、凄いなぁと(だってものすごい枚数を作画しないといけないんですよ、手書きで……)。庵野が大阪芸術大学1年生のときに課題で作った「じょうぶなタイヤ」とか、可愛らしくて面白かった。
エヴァの膨大な資料を見ていると、当たり前だが、アニメは全て作り手が決めなければならないのだな、ということを感じる。文章はもちろん細かく書き込むことはできるが、それでも限りがあって、すべての人に同じ光景を見させることは難しい、つまりあるところから先は、読み手の想像力に委ねられることになる。
もちろん、映像でもそれはそうで、映像を見た人がどのようにその光景を読み解き想像するかは、観者に委ねられている。しかし、あくまでも映し出す光景としては、誰しもが同じ内容を受け取る。そうした中で、同じ映像作品の中でも、実写に対してアニメは、物がどういう速さでどれだけ動くのか、荷物の重さはどの程度か、光の当たり具合やシワの寄り方は、と、すべてを作り手が意識的に決めていかないといけない。そしてその一つ一つを表現するには、膨大な作業が必要であるゆえに、これまた膨大なマンパワーが必要となる。
アニメ監督にはその一つ一つを地道に判断する(つまり何を見せるかを決めて、形にしていく)処理能力と、それを現場に伝えていく(指示する)コミュニケーション能力と、様々な能力が求められると感じる。
これは中々、正気でできる仕事じゃないぞ、というのが正直なところだ。それだけ打ち込める仕事というのは羨ましいが、私にはできないな、とも思う。多分、こうやろうと思って、それを頑張って現場に伝えて、それをなんとか形にして、でもやっぱり思っていたのと違ってやり直して、何度も何度もやり直して、そんなことの繰り返しなのだろうな。それだけ果てない仕事を指揮する方もついていく方も……、ただただ凄いとしか言えませぬ。