哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2022年4月の読書のこと「能から紐解く日本史」

■能から紐解く日本史(大倉源次郎/扶桑社)のこと


矢来能楽堂(東京都新宿区)

 人間国宝重要無形文化財各個認定保持者)の大倉源次郎(小鼓方大倉流能楽師)による『能から紐解く日本史』(扶桑社)を拝読した。能楽がどんな歴史の中で生まれてきた芸能か、そして、能楽がその演目の中でいかなる歴史を語り継いできたのか、を探る作品。

※ そもそも能楽における人間国宝がどのような存在かであるけれど、「2人以上の者が一体となって芸能を高度に体現している場合や2人以上の者が共通の特色を有する工芸技術を高度に体得している場合において、これらの者が構成している団体の構成員」を重要無形文化財総合認定として指定しており、「重要無形文化財に指定される芸能を高度に体現できる者または工芸技術を高度に体得している者」を重要無形文化財各個認定として指定し、慣例的に後者を人間国宝と呼んでいる……、わかりにくい。
具体的にはプロの能楽師公益社団法人能楽協会に所属する(同業者組合のようなものである)、その内ある程度のキャリアを積んだ能楽師は一般社団法人日本能楽会にも所属し(上記文化庁重要無形文化財総合認定の定義によるところの”これらの者が構成している団体”がこれである)重要無形文化財総合認定保持者となる、そして、さらに一握りの能楽師が各個認定に指定され、人間国宝と呼ばれることになる。2022年4月現在、能楽師で存命の人間国宝は、シテ方3名、小鼓方・大鼓方・太鼓方 各1名、狂言方3名。「俺の家の話」(TBS・主演:長瀬智也)のじゅじゅ(西田敏行)がいかにすごいかがよくわかる。

●読んだこと

 能楽についての説明では、ワキ方は単なる脇役でなく生きている人のことであって観客の代表、狂言方(間狂言)は単なるコメディリリーフではなく、最も現実に近い人、等と丁寧に説明なさっている。

 能楽の中には音楽を担当する囃子方以外に、物語の登場人物であるシテ方ワキ方狂言方が登場して、それぞれ主役・相手役・コメディ等と説明されることが多いのだけれど、著者の分類の仕方はストンと腑に落ちた。

 一方で歴史については、独自路線の説を採用しているように感じられた。例えば能にして能にあらずと言われ、能楽の中で、別格に神聖な曲として大事にされている「翁」について。

  1. その装束で八角形と正方形が組み合わされた模様(蜀江錦)が使われ、その模様がバチカンサン・ピエトロ大聖堂の天井画と似ている
  2. 能楽師の多くは聖徳太子に使えた渡来人の秦河勝に連なる(著者自身、苗字である大倉のほかに、秦という氏を持っており、正式には大倉源次郎秦宗治なのだそう)
  3. 中国ではキリスト教ネストリウス派景教の寺院が大秦寺と呼ばれている
  4. 秦氏が根拠をおいた場所が京都・太秦である。また秦氏の氏寺である広隆寺景教の寺院とも言われている
  5. 翁の両手を広げる動きが十字架に似ている等、演目の中身とキリスト教の伝説や文化との共通点が認められる

 等の説を紹介して、「翁」は古代のキリスト教の思想を表現しているのでは、と論を展開している。他に紹介される歴史観も、わくわくさせられる考えではあるのだけれど、真偽の程は私には判断つきかねる。著者もこれが正解ということではなく、そういう見方もできる、ということで、能楽にふれる際の楽しみ方を教えてくれているようなので、能を見るときのアイデアの一つとして参考としたい。

 他にも「大江山」や「白髭」に描かれる、比叡山を追われた先住民たちのこと(「土蜘蛛」しかり、能はしばしばヤマト政権に敗れ去った側を描く)、「夕顔」に示された権現思想(能楽は時の仏教の主流の考えでダメなら、何とか他の考えを借りてきてでも成仏させるようにするそうで、ここでは天台思想だとそのままは成仏できない女性である夕顔を、花の精であることに仮託して、権現思想(役行者の思想)を用いて成仏させようとする)等と、深く掘り下げてみたい、理解しきれていないトピックがたくさんあり、様々な意味で刺激を受けた。一曲一曲舞台を観る機会にでも確認しながら、深く味わってみたいと思う。

●考えたこと

 本書ではQRコードを使って、曲の一部や著者によるのエアー鼓のお稽古、乗馬等の動画が見れるようになっている、親切設計。さっそくエアー鼓のお稽古をやってみるが、ツー(休符・間)、ホー(掛け声)、ポン(打つ)というリズムが難しく、私のリズム感のなさを再認識させられた。

 もっとも能楽に興味を持っていても、私はシテや狂言、笛、太鼓のお稽古をすることは、将来あるかもしれないけれど、小鼓と大鼓は絶対にない。なぜなら、小鼓と大鼓の多くは、その皮に馬の皮を使っているから。私自身は乗馬をして馬が好きな身として、馬肉食、馬皮の使用は理解しつつも、自分自身がそうしたものを食べたり、使用したりすることはない。その点、著者は小鼓やっていながら、趣味で楽しそうに乗馬するんかい、と思ったら、著者のご息女もそうだった……

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