哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

《行進》

■《行進》

 日が短くなった。《行進》に加わって三日目の夕刻、そんなことに気がついた。青々と着彩した作り物のような空の彼方に、日が傾きかけて、そちらの方は朱が混ざって見える。つらい《行進》の合間であるが、秋の高い空を見上げることは楽しかった。事務所で仕事をしていたつい数日前までは、空をゆっくりと見上げることなど、できなかったから。

 私は自分の額から滴る、砂埃を含んだどろどろした汗を、ごわごわした国民服の袖でそっと拭った。《行進》をしている人は様々だ。下は中学生らしき少年、少女。上は八十、九十と歳を重ねたであろう老人まで。毎日、毎日、朝から晩まで歩き続ける。同道することとなった彼らと話をすることは、許されていない。許されているのは、一時間に一度の休憩で配られる水を飲み、朝晩二回の食事を口にすること。それに排泄と睡眠、それだけ。一週間の《行進》の間、その許可されたことだけをして、あとはひたすらに歩き続ければ《行進》を外れて良い。

 そう《行進》は刑罰の一種なのだ。《行進》中の一時間に一度の休憩を行う役場に《行進》をすべきものとして名前が提出される、どこかの誰かによって。役人はその名前が書かれた人を訪ねて《行進》に加わるように命令する。《行進》にきちんと加わったか、あるいは《行進》中に許可されていない行動をとっていないか、業として見張ってくれる人はいない。見張るのは世間だ。《行進》に加わらなければ、あるいは《行進》中に許可されていない行動をすれば、直ちに役場に名前が提出される、一週間の《行進》をすべき人物として。

 一週間の《行進》を終えれば、その最後の役場の区域に住み着くことになる。もちろん、その区域から出たり元いた区域に戻ったりすることは、誰も止めてくれない。ただどこかの役場に誰かによって、《行進》をすべきものとして名前が提出される、それだけのことだ。

 そういうわけで私も他の誰も彼もが、黙って《行進》し続けるのだ。許可されていない行動、例えば病気になって《行進》を中断したり、病気になって《行進》を中断した人を看病しようとしたり、他の《行進者》の食事を盗ったり、他の《行進者》に食事を盗られたり、《行進》中に他の《行進者》の名前を一週間《行進》すべきものとして提出したりした人は、一週間《行進》すべきものとして名前が提出されて、さらに一週間《行進》することになる。

 幸いに《行進》すべきものとして私の名前が、私の元いた区域の役場に提出されたのは秋の初めころ、真夏の暑さの盛りや、真冬の寒さの中を《行進》することに比べれば、ずっと快適だ。歩きながら、誰が私の名前を《行進》すべきものとして提出したのだろうと考える。私には何か《行進》させられるような落ち度があったのだろうか。

 夜九時にその日最後の役場にたどり着くと、役場の人が食事を配ってくれるので、それを速やかに口に入れて横になる。鯖が挟まれたパンを、冷めた味の薄い、具のないスープで流し込む。同じ時刻、役場から離れていく人がいる、一週間の《行進》を終えたのだ。何を考えているのか、明日からその人がどうやって生きていくのかを想像する。答えはわからない。自分がどこでどのように《行進》を終えるのか、その時何を考えて、その翌日からどうやって生きていくのか、まるでわからないように。

 翌日、雨である。傘をさすこと、国民服以外の雨合羽などを着用することは、許されていない。老人など体力のない人物は《行進》を断念する。今日無理をするよりももう一週間《行進》をすればよいだけだ。私はそんな人々を尻目に《行進》を続けた。思いの外、涼しい日であった。身体中がびしょ濡れになって、その日の夜はよく寝付けなかった。雨の日の翌日、頭がぼぅっとした。身体が思うように動かなかった。私は《行進》に加わることを断念した。その雨の日にたどり着いた役場でもう三日ほど、寝続けた。

 誰かが私の名前をもう一週間《行進》すべきものとして提出したのだろうか、そんなことはわからなかった。誰も教えてくれなかった。わからないけれど、体調を回復した私は《行進》に復帰した、もう一週間《行進》をするつもりで。また少し風が冷たくなり、秋が深まったようであった。

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