■総特集森見登美彦の感想のこと
●経緯
【参考1】
#文藝別冊森見登美彦 #その1 #森見登美彦
— sak tak (@bulk78_) 2019年2月2日
●『文藝別冊総特集森見登美彦』の感想のこと
作家森見登美彦を特集した本を読み終えた私は、静かに本を閉じて、ため息をついた。なんとなく私の知っていたもりみーが大スターになって、遠く離れていってしまうような、そんな気がした。
【参考2】
論者は河出書房新社から刊行された総特集森見登美彦に関して、上記のツイート【参考1】を、平成31年2月3日未明、投稿した。これはWeb河出によるプレゼントキャンペーン【参考2】を見た論者が欲に目がくらんだため、に呼応したものである。その際、せっかく森見登美彦についての感想を書くのだからと力が入り過ぎてしまい、数千字という大作になってしまった。故に1ツイートが140字以内というTwitterの制約に対応する形で、論者のツイートは数十件に及んでいる。また、論者は調子に乗って、ツイートのスレッドを途中から枝分かれさせるなど、やりたい放題独創的な感想文の展開をさせた。これに関して、その真意はさておき、決定的に読みづらいという問題が発生しており、以下にその構造を説明するとともに、感想の概要を併せて記す。
●構造
1→2→3→4→5→6 ~9
→6a ~ 10a →11a
→6b ~ 10b →11b
~ 10ba→11ba~19ba(完)
●概要
作家森見登美彦を特集した本を読み終えた私は、静かに本を閉じて、ため息をついた。なんとなく私の知っていたもりみーが大スターになって、遠く離れていってしまうような、そんな気がした。『四畳半神話体系』について本書でもりみ―が、4つのストーリーを同時進行で進めていったということを書いている。意味不明である。パズルのようで大変だったそうだが、それでも完成させる登美彦氏はどう考えても只者ではない。この時点(2作目)で、歴史に名を遺す作家の片鱗を見せているのだ。そして私はまだ『熱帯』は未読なのであるが、その内容を本書で知り正直、ヤバいと思った。アマゾンを巻き込んでの、幻の本についての本。現実と幻想のリンク。今ですら人気作家に成り下がったもりみーは、今後さらなる勇名をはせるであろう。日本国民なら誰もが愛する作家になるだろう。
本書のもりみーを作った100冊に、自分の好きなものが入っていると嬉しい。例えば椎名誠の『哀愁の町に~』や『キン肉マン』、押井守などだ。普通、同じ材料で作ればそれだけ似た料理になる。少なくとも肉じゃがを作るのに、肉とじゃがはあらねばならない。時にもりみーを作った100冊分の何冊かが私の形成に携わっているということは、私ももりみーと似た味に仕上がる可能性が高いということだ……。本書の表紙のもりみーの写真を眺めて、私は首を傾げた。僕はこのおっさんと同じ味に仕上がりたいのか?
本書に収められた3つの短編には、いずれも得体のしれない、モノやコトが存在する。特に最後の『金魚鉢をのぞく子ども』は嘘や幻覚、怪異が満ち満ちていて、ぞくぞくする。それはそうと、本書の短編『金魚鉢~』は『きつねのはなし』的な怪談であり、『聖なる自動販売機の冒険』はその名の通り、乾いた感じが『聖なる怠け者の冒険』に似ている。そして『大草原の小さな家』は『ペンギン・ハイウェイ』+ちょっと『きつね~』の趣だ。
本書で私が最も感じ入ったのは、明石氏(『太陽の塔』の飾磨)との対談である。若いころのもりみ―が見れた気がして、とても面白かった。もう一つ、いくつかの個所で触れられる、2011年の全連載停止事件。仕事人としてのもりみ―の苦悩が感じられ、良い。本書はもりみーについてみた夢である。仕事場の写真、短編小説、インタビュー、論評、コラム、対談、それらがふわふわと駆け巡っていく。オモチロイ。万華鏡のように輝くもりみ―を、その全体のまま、知ることができる良書であると感じた。
読め→『夜行』『太陽と乙女』レム『ソラリスの陽のもとに』内田百閒『冥途旅順入城式』織田作之助『郷愁』カフカ『城』太宰治『御伽草子』
■宗八②
【前】
●Kritik der reinen Vernunft
そんなことを、久冨さんに聞かれたことがある。俺の場合は、身体中をボディソープで洗っていた。もちろん、俺がきちんと剃髪してスキンヘッドであったのは、京都の寺で修行していた数か月のことで、それを終えて関東に戻ってから、実家の寺で僧侶をやっていた間も、髪を人並みに伸ばしていた。
もっとも、そんな生活は数年しか続かなかったが。毎日、あちこちの葬式に出張って、意味の分からない経をあげ、盆や彼岸には、寺や檀家の仏壇で経をあげる、俺を取り囲む故人の家族たちがうつらうつらしてきて、終いには経の読み上げをやめない俺をにらみつける奴らさえ出てくる、労働環境としては、あまりよくない。たまに一緒になって経を口ずさむコーラス部隊や、木魚のリズムに合わせてヘッドバンギングする親衛隊が出現するが、正直、やりにくいのでやめてほしい。
そのあと、俺は父親との平和的話し合いの末、親子の縁を切る代わりに、もう僧侶はやらなくてよい、という寛大な判断をいただいた。おかげでその翌日、俺はほとんど無一文、着の身着のままで実家の寺を出て、リュックサックを膝に乗せ、高崎線のシートに座って、外を降りしきる雪をぼーっと眺めていた。不安もあったし、家族に対する憤りもあった、それにもう僧侶をやらなくてよいことに対してホッとする気持ちもあった。だけど何より、袈裟を着ていないことが寂しかった。
葬式に出ること、檀家と接すること、意味の分からない経を口ずさむこと、父親の全てを見透かしたような瞳、その一つ一つがどれもこれも嫌であった。嫌でたまらなかった。だけど、その総体としては、僧侶であった俺の毎日は、やはりかけがえのないもので、おそらくその日々がもう絶対に戻ってこない、というのは、俺にとってはやはり寂しいことで、大いなる喪失感を禁じえなかった。
そこで俺は、高崎線で東京を目指しながら、歌を作った。
今朝、俺は袈裟を脱いだ。今朝、俺は袈裟を脱いだ。
朝から晩まで着ていたんだぜ。
今朝、俺は袈裟を脱いだ。今朝、俺は袈裟を脱いだ。
病める時も、健やかなるときも、着ていたのさ。
ケサランパサラン、ケサディーヤ。
はい、今朝袈裟今朝袈裟。
今朝、俺は袈裟を脱いだ。今朝、俺は袈裟を脱いだ。
ユニクロで買った大事な袈裟を。
今朝、俺は袈裟を脱いだ。おお、脱いだ、俺は、脱いだ。
汗が染みこんだあの袈裟を。
ケサランパサラン、ケサディーヤ。
はい、今朝袈裟今朝袈裟。
【後】