哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

絵画等のこと⑮ ”not〈 I 〉, not not〈 I 〉“ 私ではなく、私ではなくもなく @ HARUKAITO by island

 ■絵画等のこと⑮

 
 

 10月22日(日)までHARUKAITO by islandにて開催中の大小島真木の個展「”not〈 I 〉, not not〈 I 〉“ 私ではなく、私ではなくもなく」を拝見してきたので、感想を記す。

 

ohkojima.com

Exhibition | 9.13.2023

私ではなく、私ではなくもなく
2023.9.30-10.22
大小島真木個展

原宿のBLOCK HOUSEで個展を開催します。
新シリーズ”not〈 I 〉, not not〈 I 〉”の初発表です。新作群、是非ご覧ください!

展示概要
「”not〈 I 〉, not not〈 I 〉 “私ではなく、私ではなくもなく」
会期:2023年9月30日(土)- 10月22日(日) ※月、火、水 は休廊なので、ご注意ください。
開廊時間:13:00〜19:00
会場:HARUKAITO by island
150-0001  東京都渋谷区神宮前6-12-9 BLOCK HOUSE 2F
入場料:無料
主催:アイランドジャパン株式会社
URL :  http://islandjapan.com/update/1120/

 Flyer designed  by Midori Kawano

●”not〈 I 〉, not not〈 I 〉 “私ではなく、私ではなくもなく のこと

 東京メトロ明治神宮前駅(JR原宿駅)から徒歩五分程、お洒落なアパレルなどのお店が立ち並ぶ私にはどうもなじみの薄いエリアのビルの二階にて、本展示は開催されている。ビルの壁面につるされたバナーがなければ、会場がどこだか分からなかったかもしれない。
 恐る恐る二階に上がっていくと、作家に声をかけられて安心した。私が伺った10月7日(土)は作家が出展している、千鹿頭 CHIKATO 大小島真木 調布×架ける×アート(10月7日~2024年1月14日)の初日であり、MEET YOUR ART FESTIVAL 2023「Time to Change」​​(10月7日~9日(マーケットエリアは10月6日~))のアートチケットエリアの初日でもあるため、こちらにはお出ででないだろうと思っていたので驚きもした(別にいなそうな日を狙って訪れたわけではなく、たまたま私が仕事の帰りに伺える日がこの日であった)。

 それでギャラリー内は、作品のコンセプトを伝える映像、絵画作品、立体作品(陶芸に布やひも等を組み合わせている)が展示されていて、作品一つ一つも楽しめるし、また部屋全体通してインスタレーション展示のような空間に仕上げられている。それらの作品は人間や動物、複数の生き物がかさね合わさり、繋がりあった、私の境界について問いかける内容となっている。映像の中で「まなかい」という言葉に言及される。

ま‐な‐かい ‥かひ【眼間・目交】

〘名〙 (目(ま)の交(か)いの意) 目と目の間。転じて、目の前。まのあたり。
※万葉(8C後)五・八〇二「何処より来りしものぞ 麻奈迦比(マナカヒ)に もとな懸りて 安寝し為さぬ」
[補注]「かひ」については、「山のかひ」「潮かひ」といった上代語があるところから、「交ふ」という動詞とは無関係な「間」の意の名詞と考える説もある。

(参照:精選版 日本国語大辞典

 作品はどれも目(瞳)が印象的に描かれている。人の目、獣の目、一つの個体が複数の種類の目を持っていて、それらが観者のほうに視線を向けている。私というものを考えるときにこれだけ目が重要なのはなぜだろう、と思う。何故耳や、鼻や、口ではなかったのだろうか、そんなことを考えながら拝見していたが、目で見る表現において目が象徴となるのは当然ともいえる。

 映像で示されたコンセプトがとても面白かった。作家は様々な人の言葉・文献を引用しながら考察を進めているが、その詳細は忘れてしまった。ともあれ私である、私でない、私ではなくもない、そんなことを考えていくと純粋に哲学的な空論になってしまうようにも思っていたのだけれど、それだけではない。例えば私たちの内臓は口と肛門で開かれていて、外の世界に繋がっている。これを外臓と呼ぶ。そんな考え方があるらしい。世界は私の外臓であり、同時に私は誰かの外臓なのである。
 土はミミズの内臓を通って、排せつされて腐葉土になる。腐葉土は豊富な栄養で草木を育む。腐葉土ラテン語でフムスというらしい。そして人間(ヒューマン)の語源はこのフムスなのだとか。海の大量の生物を捕食した鯨は死後、深海に沈んでいき深海生物の栄養となる。深海生物が豊かな海を育み、海の大量の生物を養う。食物連鎖と名付けてわかったような気になるが、こうした循環が世界中で起きていて、私もそうした生物を食しやがては土に還っていく。循環の一部である。

 インドの牛の話も大変興味深かった。インドにはヒンドゥー教徒が多く、彼らにとって牛は神聖な生物であるため食べることはしない。その代わり牛乳をとったり、農作業をやらせたりはするらしい。農作業をしてなくなった牛の肉は、人間が食べないのでイヌワシ(たしかイヌワシだったと思う)が食べる。ついでにイヌワシは人間の死骸も食べる。動物の死骸を食べるスカベンジャーである。
 ところが近年、病気の牛を働かせるために、牛に薬を使うようになった。その薬を摂取した牛の死後、イヌワシがその死肉を食べると腎炎になるらしい。それでイヌワシが減ってしまったのだとか。もちろん、誰も予想しえなかったことだ。
 この一つの条件が変化した時の環境変化の予測しえなさについては、マナティー研究所の菊池夢美の主張を本ブログでも何度か取り上げてきたけれど、薬の使用から環境が変化する、そしてそれはまわりめぐって人間にも影響がある、という点が改めて勉強になった。

地球の生きものが絶滅し続けていても、私たちの生活に影響がないように見えるかもしれません。それは、私たちがまだほんの一部しか利用していないからです。でも、その一部の背後にも、複雑で理解しきれない『生物の繋がり』が広がっています。異常な速さの絶滅が続くことで、いつ、どのようなほころびが出てくるか、誰にも予測できません。このように、生物多様性を失い続けていることは、人間の存続にも関わる大きな問題です。目に見えるような問題が起きていないからと言って、人間の「役に立つ」ことだけを優先していては、この問題を解決することはできません。

(参照:マナティーの保全は何の役にたつ?

 なんだかとりとめのない記事になったけれど、本展示で見せられるのはそんなとりとめのない作品や情報である。私という個体の境界を揺るがしてくる表現や考え方、実例をとりとめなく見せられる。私とはそれだけとりとめのないものである。
 そうそう芸術の端緒は、樹上での採集生活を終えて地上での狩猟を始めた、武器も技術も持たない人間が、肉食動物の食べている肉を横取りするために派手な衣装で踊ったことという意見があるらしい。人間も立派なスカベンジャーである。芸術が人間にとっての狩りであるとするならば、私は原宿までわざわざ狩られに赴いたということになる。

■ちょっと関連

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