哲学講義

仇櫻堂日乗

【まえがき】会社勤めの傍ら、趣味で文章を書いています。私の日常での出来事や考えたことに加えて、読んだ本、鑑賞した美術などの展示、コンサートや能楽公演の感想、それに小説などの作文を載せます。PC表示ですとサイドバーに、スマホ表示ですと、おそらくフッターに、検索窓やカテゴリー一覧(目次)が表示されますので、そちらからご関心のある記事を読んでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

2024年5月の徒然なること

■ 2024年5月の徒然なること

 いま、大いにやる気が起きない。だからひとまず、思いつくままのことを書き記するのである。
 そもそも、毎週日曜日にこのブログの更新をしていて、文章を書く、それ自体はとても好きな行為なのだけれど、それでも毎週毎週、こうして何かを書いていると、書きたいことも書くべきことも、枯渇する。

 ブログを何故書くのか?

 ブログはメディアとは違うのか? その辺りの知識は私にはないので個人の感想を書きたい、書きたいというか書きながら考えていく。
 ブログは、あるいはTwitterやInstagram等のSNSは、個人的であることが許容され、むしろ大いに推奨される。メディアは、テレビや新聞、書籍、ネット記事の類は、ブログやSNSよりは個人的であることの許容度が低いように思われる。つまり私はこう思う、そうしたことを書くことに配慮が必要になるのがメディアであると思う。

 例えば新聞にも、筆者の感想が書かれる記事も存在する、はずだ。私は新聞を読まないので、よくは知らない。でも筆者が、時の政治や社会に対して、こうあるべきだとか、これは遺憾である、みたいな意見を表明する記事は存在すると思う。それが筆者の感想か、新聞社の思想かは知らない。それでも、そうした記事は多くはないと思う。新聞の記事の大半は、事実を伝える記事である。政治家がこんなことをした、こんな事件が起きた、ある芸能人夫妻が離婚した、そんな起こってしまった事実を淡々と伝えるのが新聞である。

 では小説はどうだろう。適当な文庫本を開けば、そこに書いてあることは全てが虚構の場合もあれば、半分以上が真実であることもある。

 その日、プリュミエール近藤は、錦三条の通りの突き当りにある井戸のつるべなわを伝って地下に下り、そのまま北進してグランベンベン山脈の地下を抜けて山梨県に入った。

 と、書かれていたとしよう。この中に何らかの真実、あるいは事実があるだろうか? ところで真実と事実の違いは何であろう? 調べてみると真実は嘘のない本当のことで、事実は実際に起こったこと、らしい。
 なるほどそう考えると、上の文章の中に事実はないと思う。プリュミエール近藤も錦三条もグランベンベン山脈も、私がたった今、単語として思いついた文字の羅列に過ぎず、私は彼らのことを想像できてすらいない。ましてや、上に書かれているようなことが起こったという事実を、少なくとも私は知らない。もっとも私が知らないだけで、プリュミエール近藤が錦三条の通りの突き当りの井戸からグランベンベン山脈を抜けた事実があるかもしれないけれど。
 一方で真実は書かれている。その一つがつるべなわである。上の文章を書いている時に、井戸に吊るす綱を何というのだろうと分からなかった私が、調べて出てきたのがこの単語だ。つまり井戸につるべなわが掛かっているというのは、真実なのである。その井戸は、錦三条にはないかも知れないし、プリュミエール近藤が使った井戸ではないかもしれないけれど、つるべなわが掛かった井戸は確かに存在するのである、多分。

 何が言いたいのか。作家は小説を書くためにしばしば取材をする、と思う。それは作家のインタビューやドキュメンタリーを見ていると、取材をしている様子が描き出されることがあるからそう思っているのだけれど、描かれた、取材をしている様子すら虚構である可能性はなくはない。ともあれそうした疑いを一度横に据え置き、話を進めると、作家は取材をした上で、物語を作り出す。例えばパイロットの話を書くのであれば、パイロットの取材をする。飛行機のコックピットの中はどうなっているのか。どんな訓練をして、どんな勤務体系なのか。そうやって調べ上げた真実の上に、しばしば事実も参考としながら、虚構の物語を作り出す。
 パイロットについて描かれたドラマ等の知識を総動員して考えるに、飛行機は複数の部品、電子機器によって構成された機械仕掛けの乗り物であり、パイロットはその機体の前の方にある操縦室で、操縦桿やらいくつかのボタンなどを操作して、飛行機を飛ばす、のだと私は思っている。それを一度真実として仮定する。だから、多くの小説やドラマ、漫画などにおいて、パイロットはそんなような風に飛行機を操縦する人として描かれる。そうでない場合、例えばパイロットであるキャラクターが、部屋でゴロゴロしながら念力で飛行機を飛ばすようなことは、あまり起こりえない。あまり起こりえないのだけれどそうした小説は多分存在して、そうした小説を我々はファンタジーとかSFと呼んだりする。

 なんでこんなことを私が書いているのか、いま私が不思議に思っているのだけれど、私がいま書いているこれは、多分ファンタジーである。いや、ファンタジーではないかもしれない、つまり私がこれまでつらつら書いてきたことが、現実世界の事実に近い、あるいは模倣したものであるのならば、それはファンタジーではない。私には私の頭の中に浮かび行く思考の流れ、つまり上につらつらと書いてきた文章が、どれだけ現実世界の事実に近いものなのか、判断がつかない。

 小説は多少なりとも現実世界の事実に近い、あるいはそれを模倣したものであることが望ましい。ある程度、読者の日常に近く、想像しやすいものでないと、作品として成立させることが難しい。だから、そうだなあ、ファンタジーですら往々にして、現実世界の事実に近い、あるいは模倣したものでしかありえないわけか。例えば魔法が登場する物語だって、その魔法を使って強さを比べて戦争を起こしたり、現実世界で機械がやっていることを魔法にやらせたりして、つまり現実世界を模倣し、現実世界のある部分を魔法に置き換えることで物語に仕立てている。

 ここまで書いてきたところ、初めから一度読み返した。結論から言うと、私の「ブログはメディアとは違うのか?」という問いに対する思考として、これまで考えてきたこと、辿ってきた道筋は多分間違っている。そもそも、小説やドラマ、漫画等の文芸作品のことを、メディア側の一例として考えを進めた結果、道を間違えたような気がする。あるいはブログとメディアを別個のものとして考えたことが間違いなのかもしれない、つまりブログはメディアに含まれる概念なのではないか、という気がいまはしている。

 書きたかったことは、上につらつら書いてきたことは、私の考えである。私はこう思う、というものである。私はこう思う。私がこう思う、と思ったことは、必ずしも真実あるいは事実と一致しない。一致する場合もある、一致しない場合もある。
 一致しない場合、私がこうして、私はこう思うを書き記すことにどれほどの意味があるのだろう。そう考えたときに、「ブログを何故書くのか?」という問いに対する答えが浮かび上がるように思う。

 私はブログを書いているけれど、基本的に他者のブログは読まない。なぜなら多くのブログには、他者の「私はこう思う」しか書かれていないからだ。その他者が私に親しい他者である場合、その文章に私は一定の価値を見出すものであり、だから私に近しい他者が多く存在するSNSでは私は他者の投稿をしげしげと眺めるのであるが、そうした他者が存在しないブログでは、私は他者のブログを読まない。他者のブログを読む際は、それを他者のブログとしてではなく、真実や事実が紛れている情報の山として読む。
 私は全く知らない他者の「私はこう思う」にはあまり興味がないけれど、近しい他者の「私はこう思う」には興味があるし、それに耳を傾けることの大切さを知っている。それでも私は私を全く知らない他者に対してでさえ「私はこう思う」を書き続ける。
 その書くという営みを通して、私が「私はこう思う」ということに気がつくことができること、それこそが「ブログを何故書くのか?」という問いに対する答えなのではないか? いま、私はこう思っている。

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